聖書のみことば
2023年5月
  5月7日 5月14日 5月21日 5月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月14日主日礼拝音声

 ユダヤ人の王
2023年5月第2主日礼拝 5月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第15章1〜20節

<1節>夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。<2節>ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。<3節>そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。<4節>ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」<5節>しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。<6節>ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。<7節>さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。<8節>群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。<9節>そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。<10節>祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。<11節>祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。<12節>そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。<13節>群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」<14節>ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。<15節>ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。<16節>兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。<17節>そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、<18節>「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。<19節>また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。<20節>このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

 ただ今、マルコによる福音書15章1節から20節までを、ご一緒にお聞きしました。
 1節に「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した」とあります。夜明けと共に最高法院の会議が招集されます。その場で相談し、主イエスを有罪と定め、ローマ総督ピラトに訴え出て処罰してもらうと決まったことが語られています。
 こういうなりゆきには、少なからず戸惑いを感じる方がいらっしゃるのではないでしょうか。主イエスに対する裁判はすでに前の晩から行われていて、その裁判の席上で、裁判長の役目を果たす大祭司カイアファが芝居気たっぷりに衣を引き裂いて見せながら、主イエスの罪をどのように考えるかと最高法院の議員たちに尋ね、そして議員たちはイエスが死刑に相当すると評決を下していたのではなかったでしょうか。14章63節64節には「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は、死刑にすべきだと決議した」とあり、最高法院の議員たちが、主イエスを死刑にすべきと確かに決議したことが述べられています。ですから、主イエスをピラトの前に引いて行って十字架につけるよう求めることは、既に夜の間に決まっていたことになります。
 それならば、夜明けを待って最高法院が召集され、そこで相談された事柄というのは一体何だったのでしょうか。当時の議事録が残っているわけではないので正確なことは言えないのですが、研究者たちの多くは、夜明けに最高法院の会議が召集されたのが事実であるなら、それはおそらく、きちんとした裁判を開いて正当な仕方で主イエスを有罪に定めたという体裁を整えるためだったのだろうと推測しています。夜の間に開かれる裁判には、いろいろな意味で問題があったからです。
まず夜というのは、暗闇が辺りを覆い、光よりも闇が優勢となる時間帯です。それで、夜の闇の勢力が強い時間帯に会議を開いて協議をすると、そこに闇の勢力が秘かに入り込んできて議員たちの判断を惑わし結論に影響を与えてしまうかも知れないと考えられていたために、その時間帯に最高法院の会議を開いて決定を下すことは禁止されていたそうです。つまり、夜間に下された判決は、それだけでは無効とされる恐れがあったのです。それで、夜が明けてから再び形ばかりの裁判が開かれ、主イエスの死刑判決は「夜が明けてから下された」ように、形を取り繕ったのです。
 また当時の慣習として、正しいこと、間違いのないことは、2人または3人の証言によって初めて正当であると認められたのですが、それと同じように、人の命を奪うという重大な判決が下される場合には、一度きりの判決で死刑が確定するのではなくて、日にちをまたいで少なくとも2度、同じ判決が出されなくてはならないという決まりもあったようです。この決まりから言うと、主イエスの死刑判決は夜中に1回、夜明けに1回出されていますけれども、当時のユダヤの一日は夕暮れから始まって翌日の日没までとされていましたから、夜中の判決と夜明けの判決は、時間帯は違っていても同じ一日のうちということになります。従って、これを二日に渡る2度の判決と言うことには無理があるのですが、最高法院の議員たちは無理を承知の上で、夜中と夜明けと、2度の死刑判決が出たことにして、主イエスの身柄を総督ピラトの前に突き出したのでした。
 そのように判決を急いだのは、新しい日が始まってエルサレムの住民や巡礼者たちが主イエスの逮捕の事実を知った時、祭司長たちのやり方に反対して横槍を入れようとするかもしれないことを恐れたためだと言われています。最高法院の議員たちは、その頂点にいる祭司長たちを初めとして、本当は自分たちの下す判決が偽りであり、欺きに満ちていることを知っていて、しかしそれでも尚、主イエスを亡き者にしようと企んだのでした。

 しかしこの早朝の最高法院の協議は全く形だけのもので内容が何もなかったかと言うと、そうでもなく、幾らか実際的な相談がされたような節が窺われます。それは、主イエスをピラトに突き出す際の罪状についてです。
 夜の裁判では、主イエスが神を冒涜したという理由で死刑にするべきだという判決が出されました。その際、主イエスの言葉を引き出す呼び水なったのは、大祭司の語った言葉でした。大祭司カイアファは主イエスに向かって「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねました。それに対して主イエスが「そうです」と、御自身が神の独り子でありメシアであると名乗りをあげたことについて、有罪であり、死刑に相当するという判決が出されたのでした。
 ところが今日の箇所で、主イエスがピラトの前に突き出された場面では、いつの間にか、主イエスが「ユダヤ人の王と名乗った」と訴えられているのです。これは、朝の最高法院の裁判の中で、どのように主イエスのことを訴えればローマ総督のピラトが速やかに死刑判決を出すだろうかと考えた結果でした。つまり、「この男は自分をメシアだと名乗った」と訴えるよりも「この男はユダヤ人の王だと自称していた」と訴えた方が、よりローマ側に刺激的に聞こえるだろうと考えたのです。

 しかしその結果、総督ピラトは、ひどく驚くことになりました。目の前に連れて来られた主イエスが嘲られ、痛めつけられて、極めて貧相ななりをしているのに、その罪状が「ユダヤ人の王になろうとしていた」というものだったからです。
 ピラトは大変怪訝に思って主イエスに尋ねています。2節に「ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と答えられた」とあります。主イエスは、御自身がユダヤ人の王であるのかないのか、ピラトの前ではっきりとしたことをおっしゃいません。「それは、あなたが言っていることです」とお答えになります。そしてそれ以上、主イエスはもう何もおっしゃいませんでした。その様子を見て、ピラトが不思議に感じたということが5節に語られています。
 実際に判決を下さなくてはならないピラトの立場からすると、主イエスが口を開いて何かを言ってくれれば、その言葉によって大方の想像はつくようになります。たとえば、もし主イエスが本当はユダヤ人の王ではなくて、ただ濡れ衣を着せられ、何らかの理由で抹殺されそうになっているのだとしたら、普通は「自分は訴えられているような者ではない」と主張するでしょう。「後生だから、わたしを陥れようとしている者たちの偽りに耳を貸さないで欲しい」と涙ながらに訴えて命乞いをするに違いありません。あるいはまた、もし主イエスがローマ帝国に対抗して立ち上がり、自分はユダヤ人の王だと言ってローマに反対する運動を起こした首謀者であったならば、ローマ帝国によるユダヤ支配がいかに矛盾に満ちたものであるかを語り、「わたしは残念ながら捕らえられたので、これまでローマに捕まって処刑された殉教者の道を辿ることになるけれども、これだけは覚えておくがよい。今このわたしを処刑したとしても、必ず第2、第3のわたしの後継者が現れ、本当のユダヤ人の王がユダヤを支配する時が来ることになる」と雄弁に語ることでしょう。
 ところが困ったことに、「ユダヤ人の王」と言い立てられてピラトの前に連れて来られた容疑者は、完全に沈黙して何も語ろうとしないのです。何も主張しなければ、訴えを起こしている者たちと争わないということになりますから、相手の訴えを認めたことになってしまいます。即ち、ユダヤ人の王として処刑されることになるのです。

 そのことが分かっているだけに、ピラトは助け舟を出すような気持ちで主イエスの発言を促そうとします。4節でピラトは言うのです、「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」。しかし主イエスはなおも沈黙を守られ、ピラトは釈然としない思いを抱えることになります。主イエスが「ユダヤ人の王」であると言って訴えられ、それに主イエスが何も反論しなければ、最後には主イエスはローマ帝国に敵対するユダヤ人の王として十字架に上げられ処刑されることになるでしょう。しかしピラトは、目の前の囚人がローマ帝国に敵対しようとする首謀者でないことは察しがついています。ピラト自身も、ユダヤ人に敵対心を持つサマリア人やシリア人からなるローマ軍のエルサレム守備隊を率いていてユダヤ国内や近隣の土地で不穏な動きがないかを日頃から探っていますが、その探査のアンテナに「ユダヤ人の王が名乗りを上げた」という情報はひっかかっていません。
 それでピラトは、詳しいことは分からないまでも、今回の告訴は祭司長を初めとするユダヤ人たちの妬みによるものらしいと察して、何とかして主イエスを処刑しないで済まそうとします。罪のない人の血を流せば、そのことで今度はピラト自身が怒りと憎しみを買うことになるからです。それで、過越や仮庵といった大きな祭りの度に、代々のローマ総督が囚人の一人に恩赦を与える習わしがあることを思い出し、それを活用して、イエスの命を取らずに済まそうとも考えました。しかし、うまく行きません。結局、殺人犯のバラバが釈放され、その身代わりとなったかのように、イエスは十字架に磔にされることが決定しました。

 しかし一体、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。その理由ははっきりしています。ピラトの前の裁判において、主イエスが争う姿勢をまったく見せなかったためです。もしいくらかでも、祭司長たちの訴えに対して主イエスが反対し争う姿勢を示したならば、結果は違っていたかもしれません。少なくとも総督ピラトは、この出来事がユダヤ人たちの妬みのせいであることを見抜いて、何とかして被告の命を助けようとしていたのですから、もし主イエスがユダヤ人たちの訴えに対して対決する姿勢を示していたなら、十字架刑を免れることのできた可能性は高いのです。
 それなのに、どうして主イエスは争わなかったのでしょうか。すっかり観念して、どうせ助かる道はないのだと諦めてしまわれたのでしょうか。そうではありません。この場面で主イエスはまさに、ピラトから言われたとおりの姿、「ユダヤ人の王」として行動しておられるのです。ピラトが主イエスに向かって「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねた時、主イエスは「それは、あなたが言っていることです」とだけ答えて、御自身がユダヤ人の王であるかないかの答えをなさいませんでした。そして、それ以上の答えは一切なさらず、そのために十字架による処刑が決まってしまいました。
 けれども、ピラトに対して言葉ではお答えになりませんでしたが、ここで主イエスはまさに、「ユダヤ人の王」として行動しておられます。「ユダヤ人の王」というときに、ユダヤ人というのは一体誰でしょうか。我こそはユダヤ人の中のユダヤ人だと自認しているのは、大祭司であり、ファリサイ派の人々であり、律法学者、そして長老たち、即ち、最高法院を構成する議員たちです。他にもユダヤ人は大勢いますけれども、この最高法院の議員たちは、自分たちこそがユダヤの民を代表する存在だと思っています。
 しかしユダヤを代表する人たちが実際に行っていることは、神の民イスラエルのあり方にもとる、まったくあるまじきことです。偽りの証人を立て、偽りの罪をでっち上げ、しかもその罪状まで書き換えた上で、主イエスを処刑するようにローマ総督ピラトに求めました。民衆に知られると横槍が入りそうだと考え、夜の間に、また、まだ朝早い時間のうちに十字架刑の判決を出してもらおうとします。更に群衆を扇動してローマ総督に圧力をかけ、無実の人を処刑させる代わりに殺人犯を一人、世の中に放たせようとさえするのです。このようなあり方こそ、本当は罪に問われ処されるべきではないでしょうか。偽りと矛盾に満ちたあり方をしているのは、まさに最高法院の議員たちなのです。
 しかし主イエスは、まさにそのようなユダヤ人たちの王として、ピラトの裁判に臨んでおられます。王として、すべてのユダヤ人の罪を背負い、処罰を受けようとなさるのです。ユダヤ人の王として行動しておられるが故に、主イエスはこの裁判で争わないのです。

 結果的に、「ユダヤ人の王」として、主イエスは手酷い扱いを受けます。先程少し申し上げましたが、総督ピラトが率いていたエルサレムの守備隊は、ユダヤ人を憎むサマリア人とシリア人で構成された部隊でした。彼らは総督官邸の中で主イエスの服をはぎとり、代わりに古くなったローマ軍士官の軍服を着せ、「ユダヤ人の王、万歳」と言いながら暴行を加えました。葦の棒で茨の冠を被った頭を叩き、唾を吐きかけたり嘲ったりして、見せ物にします。その様子を部隊の全員が集まって見物したのだと記されています。いかに彼らが、日頃、ユダヤ人たちを憎んでいたかが窺われる光景です。そのように侮辱の限りを尽くした挙句、主イエスは処刑場へと引き立てられてゆくのです。
 しかしこれはまさに、主イエスが「ユダヤ人の王」として経験させられていることです。ユダヤ人たちに対する憎しみを、主イエスは王として御自身の身に受けておられるのです。
 ですから、今日私たちは「まことの王である主イエスがおられる」ことを、この箇所から知らされています。まことの王は、御自身の民のため、その過ちと罪の責任を一身に引き受けられます。ピラトが主イエスと出会って不思議に思い理解できなかったのは、ピラトの知る限り、人間の王にはそんな奇特な人物は一人もいないからです。人間の王は、民から最も良いものを搾取して我が物とします。王を守らせるために民の若者を兵士として動員し戦場に送り、命を捨てさせます。そうやって下々の人々の犠牲の上にあぐらをかきながら、良い暮らしをするのが人間の王たちです。ピラトの知る限り、人間の王や皇帝には、そういうところが見受けられるのです。
 しかし、イスラエルのまことの王は違います。この王は、神と人間との仲立ちとして、王自身はどこまでも父なる神の御心に従います。神が御自分の民の一人ひとりを愛して、何とかしてその民を御自身の許に導こうとしておられるのを知って、王はそのために自ら仕えられるのです。即ち、人間が罪のために深く自らを恥じ神に対する恐れを抱いていることを知って、その罪をすべて王の側に引き取って下さり、そして王自身が十字架の上で神に打たれ苦しめられ、遂に亡くなることを通して、人間の抱えている罪をすべて滅ぼそうとなさるのです。
 主イエス御自身は、そのような神の御計画に従ってピラトの前に立ち、裁きを受けているために、一切争わないのです。主イエスが嘲られ憎しみをぶつけられ、頭に茨の冠をかぶせられ、遂に木に上げられ命を取られるのは、ユダヤ人の王だからです。すべてのユダヤ人の王として、民の罪の責めを背負っておられる姿が主イエスの十字架であるということを、私たちは知らなくてはなりません。
 そしてそうであるならば、私たちもまた、神の民の一人に加えられている者として、この主イエスの御苦しみによって私たちの罪が肩代わりされていることを知らなくてはならないと思います。

 今日、世界的にキリスト教会の力が弱まっているとしばしば言われますが、それはまさに、この王である方が私たちの上におられることを見上げることが少なくなっているせいではないでしょうか。私たちは日頃、できれば十字架の主を見上げずに済ませたいと思って暮らしているようなところがあるかもしれません。聖書を読む時にも、様々な箇所を現代の問題に当てはめて理解しようとします。そして、そういう説明が上手にできると、そんな説教に拍手喝采したりします。
 けれども福音書が語っていることは、神の独り子である主イエス・キリストその方が、私たちの王としてこの地上を訪れてくださり、そして私たちの罪の弱さと惨めさをすべて御存知で、それを御自分の側に引きうけ、十字架の上で滅ぼしてくださったということではないでしょうか。それこそがまさに福音なのです。
 私たちは十字架によって罪を赦され清められ、新しいものとされているからこそ、それぞれに、もう一度、神の愛を信じて慈しみの許を生きることができるのです。そしてそれが福音です。ですから私たちは、絶えずくり返して、私たちの王である方が私たちの身代わりとなって十字架の上に掛かって下さり、それによって私たちの罪がすべて清算されていることを知らなくてはなりません。「罪が清められて、わたしにも新しい命が与えられている」、それが福音なのです。ここに私たちの本当の慰めと力の源があるのです。
 私たちが絶えず過ちを繰り返しながら生きてしまうとしても、それでも私たちのために罪を清算してくださっている方がおられることを信じて、もう一度、信じる生き方に立ち返ってよいことを知らされ、確信を持って生きて行くことができるのです。

 ピラトは主イエスに向かって、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ね、主イエスから、「それは、あなたが言っていることです」と答えを頂きました。しかし本当は、主イエスのことをユダヤ人の王と言うべきなのは、ピラトではなくてユダヤ人たちです。ところがユダヤ人たちは主イエスを憎み、嘲り、関係ない者として生きようとしているので、「あなたはわたしの王です」と言えないのです。
 しかしそれは、ユダヤ人たちだけではないだろうと思います。ここにいる私たちもまた、「主イエスはまさにわたしの王であり、主、メシアである」と言わなくてはならないのではないでしょうか。
 主イエスが私たちの身代わりとなって十字架にかかって下さったことにこそ、私たちの救いがあり、どんな時にも決して失われることのない本当の慰めがあります。「主イエス・キリストこそ、わたしの王、わたしの主である」と告白をして、主の御業を讃美し、感謝して生きる、幸いな者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。

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